年表

奈良美智の活動を年表形式で紹介

年表の訂正表

公開後に行った年表の訂正・更新の履歴を掲載します。

1959–1976 青森

1959年、皇太子明仁親王と正田美智子が結婚。1950年代から1970年代前半にかけて、日本は高度経済成長期を迎えた。1960年、アメリカではケネディが大統領に就任(1963年に暗殺)。1965年以降、米国の軍事介入によってベトナム戦争が激化。

日本の本州北端に位置する青森県弘前市に生まれる。豊かな自然に囲まれながら感性と想像力を育む。美術大学への進学を機に上京する。

1964 4-5歳

花園保育園(弘前市豊原)に入園する。両親は共働きで家を空けており、兄たちとも年が離れていたため、保育園から帰ると一人で過ごすのが日常だった。自宅は民家がまばらな丘の上に建つ小さな一軒家で、周囲にはりんご畑が広がり、近隣では馬や羊が飼育されているような自然が身近な環境で育った。
生まれて初めて目にした絵画は、小児科の待合室に飾られていた皿に盛られた果物を描いた油彩の静物画だった。

出典

  • 『疾駆』9、p.48
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.14-15

社会の出来事

1964
  • 8月、クレメント・グリーンバーグ企画「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」展(ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアム)を開催。10月、東京オリンピックが開催。
1965
  • 5月、澤田教一がピュリッツァー賞を受賞。6月、日韓基本条約を締結し、日韓関係が正常化。11月、米軍の介入によりベトナム戦争が激化。

1967 7-8歳

冬に、自分でテレビドラマの主題歌になっていたレコード(寺内タケシとバニーズの『太陽野郎』)を初めて買う。
奈良のレコードへの興味は尽きず、音楽だけではなくジャケットのアートワークにも関心を持つようになる。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.88
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.15

社会の出来事

1967
  • 7月、サンフランシスコで「サマー・オブ・ラヴ」が興隆。9月、四日市ぜんそく患者がコンビナート6社を提訴、日本初の大気汚染公害訴訟へ。

1959 0歳

12月5日、青森県南西部にある弘前市で生まれる。
弘前はかつて城下町として栄えた津軽地方の中心都市であり、国立の弘前大学を擁し、学生が集うことで新しい文化が育まれてきた地域である。市内には農場も多く、りんごの生産量が全国一を誇ることでも知られている。
美智という名前は、皇太子(当時)の成婚の年に生まれたことから、「美智子妃殿下」にあやかって名づけられた。三人兄弟の末っ子で、上の兄たちとはそれぞれ9歳と8歳離れていた。奈良家は代々神社の神主を務めてきた家系だったが、美智が生まれる前に父が神主を辞めて公務員に転職したため、一家は神社の社務所を離れ、弘前市内へと移り住んだ。

出典

  • 『疾駆』9、p.48
  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.89
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.13-14

社会の出来事

1959
  • 3月、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が創刊。4月、皇太子明仁親王と正田美智子が結婚。
1960
  • 1月、岸内閣が日米安保条約に調印。60年安保闘争へ。1月以降、アフリカ諸国で独立運動が活発化。17カ国が独立(「アフリカの年」)。
1961
  • 1月、米国でケネディが大統領に就任。4月、旧ソ連のガガーリン少佐が「ボストーク1号」で人類初の有人宇宙飛行に成功。8月、ベルリンの壁が建設。
1962
  • 2月、ロイ・リキテンスタインがニューヨークで初個展。3月、ボブ・ディラン、10月にビートルズがそれぞれレコードデビュー。9月、レイチェル・カーソン『沈黙の春』が出版、環境汚染を告発。10月、キューバ危機が発生。
1963
  • 1月、日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放送開始。11月、ケネディ大統領がダラスで暗殺。

1966 6-7歳

弘前市立文京小学校に入学。絵が得意で賞をもらうこともあった。遊び相手だった飼い猫の「チャペ」と一緒に北極から南極まで冒険の旅をする絵物語「ペンギン物語」を創作し、チラシの裏に描いた。
同級生と二人で私鉄に乗り、終着地の山奥の温泉地へと向かう小旅行をする。帰り道に大人に保護されて母親を心配させたが、その後も行動を制限されることはなかった。行き先さえ伝えれば、どこへでも遊びに行ける自由な幼少期を過ごした。

出典

  • 『疾駆』9、p.14
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.232

社会の出来事

1966
  • 5月、中国で文化大革命が発動。8月、日本の総人口が1億人を突破。

1970 10-11歳

当時流行していた鉱石ラジオを手作りし、イヤホンを耳につけたまま眠っていたある夜、ふと目を覚まして深夜放送に出会う。アメリカ空軍基地が青森県東部の三沢市にあったため、弘前市でもラジオのFEN(米軍極東放送網、現:AFN)を聴くことができた。FENを通じて洋楽への関心が高まる中、ベトナム戦争の時代に、暴力への抵抗を音や歌詞に込めたロックやフォークといったアメリカの音楽に強く惹かれていく。
日本は高度経済成長期を迎え、大阪万博が開催された。弘前市内の原っぱにも住宅が建ち始め、風景が変わり始めていた。成長とともに行動範囲も広がり、少し離れた友達の家にも遊びにいくようになる。一方で、動物や自然と触れあうことや、絵を描く時間は次第に減っていった。

出典

  • 『疾駆』9、p.15
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.15

社会の出来事

1970
  • 3月、大阪で「日本万国博覧会」が開幕。4月、ビートルズが解散。11月、三島由紀夫が市ケ谷駐屯地で割腹自殺。

1968 8-9歳

アイヌを主人公とした石森延男の小説『コタンの口笛』(東都書房)の古本を母親から贈られる。そこから、差別や環境に関する問題意識が芽生える。小学校三年生くらいまでは部屋にこもって絵を描いたり空想にふけることが多く、その時間が感性を育んでいった。

出典

  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.79

社会の出来事

1968
  • 4月、米公民権運動を指導したキング牧師が暗殺。6月、日本のGDPが世界第2位に。
1969
  • 1月、東大安田講堂事件で東大闘争が収束。6月、ニューヨークで「ストーンウォールの反乱」、LGBTQによる初の大規模な抵抗運動へ。7月、アポロ11号が人類初の有人月面着陸に成功。8月、「ウッドストック・フェスティバル」を開催。

1971 11-12歳

小学高学年になると、通知表には「授業中に外を見たり、落書きをしたり、空想癖がある」と書かれた。学級委員長に選ばれ、その後も同級生から推薦されたが教師の反対で続けることはできなかった。
集団生活の中で、自分の感性を恥ずべきものとして抑え込んでいた奈良は、内なる声に耳を傾けられる一人の時間を好んでいた。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.90

社会の出来事

1971
  • 8月、ニクソン・ショック。ドルと金の交換停止で国際通貨体制が揺らぐ。

1972 12-13歳

弘前市立第三中学校入学。中学校では柔道部に所属し、真剣に練習した。
両親からカメラをプレゼントされる。のちに写真は感情や記憶を留めるツールとして、作品制作においても活用されるようになる。

出典

  • 『疾駆』9、p.52
中学校の同級生たちと

社会の出来事

1972
  • 2月、連合赤軍によるあさま山荘事件が発生。5月、沖縄が米国から日本へ返還。

1973 13-14歳

初めて洋楽のレコードを買う。選んだのは、当時日本でも大ヒットしていたザ・ビー・ジーズのシングル『マサチューセッツ』と、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバルのデビューアルバム『スージー・Q』だった。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.90
  • 小西(聞き手)「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.68

社会の出来事

1973
  • 10月、第一次オイルショックが発生。世界経済の混乱と日本の高度経済成長の終焉。

1974 14-15歳

デヴィッド・ボウイのアルバム『ジギー・スターダスト』を聴く。ロックに演劇性や前衛的な要素を取り入れた変幻自在のスタイルで知られるボウイが生み出したコンセプチュアルな傑作から、鮮烈な印象を受ける。ボウイの表現姿勢は、その後の奈良の感性の形成に大きな影響を与えた。
新譜レビューを掲載した手づくりのフリーペーパーを発行したが、創刊号限りで終わった。
当時は音楽評論家になりたいと考えることもあった。

出典

  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.85
  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.68

社会の出来事

1974
  • 4月、「東アジア反日武装戦線」による三菱重工爆破事件が発生。5月、インドが核実験を強行。

1975 15-16歳

歴史ある進学校の青森県立弘前高等学校に入学。柔道部に入部したが、因習的な雰囲気になじめず退部し、隣の部室のラグビー部に入った。ポジションはフォワードで、足が速かった。他にもボクシングを嗜むなどスポーツに励むかたわら、昼食代をレコードに費やすほど音楽にのめり込んだ。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.90

社会の出来事

1975
  • 4月、ベトナム戦争が終結。

1976 16-17歳

中学生の頃から好きだったニール・ヤング&クレージーホース初日本公演(日本武道館)を観るため、夜行列車で上京する。これが初めての海外アーティストのライブ鑑賞となる。
ラモーンズが『ラモーンズの激情』でレコードアルバムデビュー。奈良にとって、それは初めて等身大の自分と重なる音楽との出会いであり、同時にパンク精神の原体験ともなった。
ねぷたは弘前の生活に深く根付いた祭りで、美術や音楽、パフォーマンスを含んだ総合的な表現といえる。高校の文化祭で恒例となっていたねぷたの山車運行では、奈良は背面に描かれる「見送り絵」を担当する。見送り絵は浮世絵や江戸時代の絵手本を題材とすることが多く、葛飾北斎『新編水滸画伝』に登場する遊女を約2メートルの大きさに拡大模写し、その見事な仕上がりは校内でも評判となる。こうした経験は奈良の創作意識を育んだ。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート」『美術手帖』p.90
  • 『疾駆』9、p.48
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.20
  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.85

社会の出来事

1976
  • 4月、中国で第一次天安門事件が発生。同、米国でアップルコンピュータが設立。7月、ロッキード事件で田中角栄前首相を逮捕。

1977–1980 東京

日本は高度経済成長を遂げ、自動車や電化製品などで世界市場をリードする大国となる。海外では戦火が絶えず、アフガニスタン紛争が勃発する。

武蔵野美術大学への進学のために上京。アルバイトをしながら東京のロックや演劇といった文化に触れる。大学教授から日本の近代美術史に名を残す画家のエピソードを聞き、感化される。1980年、両親にもらった学費を使い、ヨーロッパ旅行へ。近代美術の傑作に触れ、影響を受ける。

1977 17-18歳

東京・代々木の大手予備校で、一般大学受験の文系コースの夏期講習を受ける。そこには美大・芸術系大学受験コースも併設されており、思いがけずヌード・クロッキーの授業に参加する。そのときに描いたクロッキーが講師に褒められ、手ごたえを感じたことが美術系大学への進学を目指すきっかけとなる。当時は「作家になりたい」という明確な意志があったわけではなく、自由な大学生活を送れそうだという軽い気持ちからの方向転換だった。
秋頃には、シンガーソングライターである約10歳年上の友人や、弘前大学の学生らと交流を持つようになる。自宅近くのガレージを改造して作ったロック喫茶「JAIL HOUSE 33 1/3」の建設と運営に関わる。内装、テーブル、イス、シャッターの絵まで自ら手がけ、学校にも行かず喫茶作りに没頭した。9月29日に開店し、皿洗いのバイトやDJをするため、毎日のように通い詰めた。喫茶では年上の友人たちと音楽、文学、映画、演劇について語り合った。喫茶店の常連客から『萬鉄五郎/熊谷守一』(集英社)の画集を贈られる。そこに描かれた芸術家の劇的な生きざまに、強く心を奪われる。

出典

  • 『疾駆』9、p.20
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.235-237
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.21

社会の出来事

1977
  • 6月、独国で「ドクメンタ6」開催。メディア・アートを本格的に導入。9月、日本赤軍が日航機をハイジャック。

1978 18-19歳

弘前高等学校卒業。東京造形大学彫刻科に合格するも、入学手続は行わず、しばらくロック喫茶で過ごす。
時を同じくして、彫刻科教授の岩野勇三から「美大に行く行かない、浪人するしない、どっちにしても一度会いに来なさい」と言われ、青森から大学へ面会に行く。校内を見学し、美大生たちの真剣な創作姿勢に触発され、もともと志望していた油画科へ進学したいと思いを新たにする。
最終的に、東京造形大学には進学せず、上京して美大受験向けの予備校に通う。建設現場などでアルバイトをしながら、受験の準備に励んだ。
予備校で知り合った北海道十勝出身の友人から、画家・神田日勝の存在を教わり、関心を持つようになる。神田は東京出身だったが、東京大空襲を機に北海道鹿追町へ定住疎開した。独学で描いた油彩画と農業を両立させながら、日常に向き合った画風で知られている。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』p.20
  • 『疾駆』9号、pp.62-63
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.237
上京後、画材店の前で

社会の出来事

1978
  • 4月、アフガニスタンで四月革命。人民民主党政権が成立。5月、千葉県成田市に新東京国際空港(現成田国際空港)が開港。8月、日中平和友好条約調印。

1979 19-20歳

武蔵野美術大学造形学部実技専修科に入学する。近代洋画史に名を残す画家・麻生三郎が教鞭を執っており、尊敬する人物から直接学びたいという思いが進学の動機の一つだった。しかし、大学のカリキュラムはアカデミックな色合いが強く、奈良は次第に窮屈さを感じるようになる。
日々ドローイングに取り組み、油絵も描き続けていたが、やがて関心は大学の授業から最先端の音楽シーンへと移っていった。新宿ロフトの伝説的なライブイベント「Drive to 80's」で、愛知のバンドのザ・スタークラブを初めて観て熱心なファンとなる。同イベントには、フリクション、プラスティックス、ヒカシューといったニューウェーブ系のバンドが出演していた。ライブハウスに足を運ぶ機会が増え、吉祥寺のロック喫茶や都心のレコード店で過ごす時間も長くなっていった。
大学で知り合った先輩から、ヨーロッパ旅行で画集でしか見られなかった名画に実際に触れ、感動したという話を聞く。奈良も胸を躍らせながら、海外の風景や芸術へ思いを馳せた。

出典

  • 『疾駆』9、p.20
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.239
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.21

社会の出来事

1979
  • 3月、米国スリーマイル島原子力発電所事故発生。放射能汚染が深刻化。5月、英国でマーガレット・サッチャーが先進国初の女性首相に就任。7月、ソニーが音楽カセットプレイヤー「ウォークマン」を発売。12月、ソ連がアフガニスタンへ侵攻。

1980 20-21歳

大学1年生の終わりの2月から5月にかけての3カ月間、次年度の学費を使い込みヨーロッパ(フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル)とパキスタンを一人で放浪する。海外の美術館で名画を鑑賞する中で、「絵そのものに感動しているのではなく、印刷で見ていた作品の本物を目の前にして感動している自分」に気づく。
徐々に絵画鑑賞の新鮮さは薄れ、奈良は宿泊先のユースホステルで出会った同世代の若者たちと、映画や音楽について語り合う時間に惹かれるようになる。そうした実生活に根ざしたサブカルチャーには、言語の壁を越えてイメージや感覚を共有できる力があり、美術のような専門的な学問とは異なるリアリティを感じていた。技術と自己表現が必ずしも一致するわけではないことを実感し、生まれ変わったような気分で帰国する。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』pp.23-27
  • 『疾駆』9、pp.22-23
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.239-240
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.22

社会の出来事

1980
  • 5月、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、モスクワ五輪をボイコット。日本も不参加を決定。12月、ジョン・レノンがニューヨークで射殺される。

1981–1988 愛知

日本は円高となり、株価や地価が急騰しバブル景気が到来する。世界では冷戦の緊張が高まり、湾岸戦争や核をめぐる危機が深刻化し、国際情勢が不安定となる。

武蔵野美術大学を金銭的な問題から中退し、愛知県立芸術大学へ入学。教員の櫃田伸也や多くの友人らと出会う。1983年にヨーロッパ、中国を旅行。大学4年生の頃から美術予備校の講師を務める。1987年に3度目のヨーロッパ旅行をきっかけに、ドイツの芸術アカデミーへの進学を志す。

1981 21-22歳

海外旅行に蓄えを使ったことで学費が支払えず、加えて麻生三郎の退官も重なったため、武蔵野美術大学を中退。学費の安い公立校である愛知県立芸術大学美術科油画専攻に入学する。親には学費を使い込んだことを告げず、「負担を軽くするため公立校に移る」と伝えた。
愛知県立芸術大学では、教員の櫃田伸也や多くの友人たちと親交を深める。大学は名古屋市郊外の長久手にあり、下宿は夏は暑く冬は寒いプレハブ小屋で、東京とは異なる環境に身を置いた。友人と組んだバンド「家族計画」ではギターボーカルを担当し、音楽活動にも力を注ぐ。
ラグビー部に勧誘され、主将を務める。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』p.32
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.92
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.241
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.23

社会の出来事

1981
  • 4月、米国が世界初のスペースシャトルを打ち上げ。6月、米国疾病予防管理センターが原因不明の免疫不全症例を初めて報告(後にエイズと命名)。
長久手にて、自作の愛車「おたふく1号」と

社会の出来事

1982
  • 6月、ニューヨークで100万人規模の史上最大級の反戦集会が開幕。10月、ソニーが世界初のCDプレーヤーを発売。日本でCDソフトの市販が始まる。

1983 23-24歳

2月12日から5月5日にかけて、パキスタン航空でヨーロッパと中国を旅行。ヨーロッパでは大都市のアートギャラリーを巡り、トランスアバンギャルドやニューペインティングなど、当時勃興していた現代アートに触れ、同時代的な表現を体感する。
中国では幼なじみの友人が日本大使館でインターンをしており、彼の招聘状によって当時渡航が困難だった中国への入国することができた。大都市の北京や、山西省・太原など観光地化されていない地域も訪れ、現地の人々と交流する。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』pp.34-36
  • 『疾駆』10、p.25
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.199-200

社会の出来事

1983
  • 4月、東京ディズニーランドが千葉・浦安に開業。7月、任天堂が「ファミリーコンピュータ」を発売。9月、浅田彰『構造と力』が出版、ポストモダン思想が流行。

1984 24-25歳

初個展「Wonder Room」をギャラリー・スペース・トゥ・スペース(名古屋)で開催する。コラージュ的な絵画作品やインスタレーションで構成された展覧会で、家をモチーフにした作品が多かった。はじめて売れた作品は、木で作った小さな教会の立体作品だった。
その後も「奈良美智、三浦孝治二人展」 ギャラリー・デネガ(弘前)、個展「It's a Little Wonderful House」ラブコレクションギャラリー(名古屋)で展覧会を開く。
大学4年生の終わり頃に河合塾美術研究所名古屋校で講師のアルバイトを始める。予備校では高校1、2年生のクラスを受け持つ。教え子には杉戸洋、森北伸、大巻伸嗣など、その後も交流を続ける作家がいた。生徒にデッサンを教える中で、自身の基礎技術を見直す機会となった。

出典

  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』p.20
  • 『疾駆』10、p.30
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.92
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.34

社会の出来事

1984
  • 1月、アップルコンピュータが「Macintosh」を発表。

1985 25-26歳

愛知県立芸術大学を卒業し、修士課程に進学。
予備校でのアルバイトに精力的に取り組み収入が安定する。授業では美大受験のテクニックよりも、美術の根源的な面白さやヨーロッパでの見聞を基にした指導を行った。思春期の生徒との対話は、作家として、人としての生き方を見つめ直すこととなる。
この頃、車を購入し長久手町から転居。ギャラリー・スペース・トゥ・スペース(名古屋)で2度目の個展を開催。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』p.39
  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.81
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.243

社会の出来事

1985
  • 2月、英国でサーチ・コレクションが一般公開。3月、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任、ペレストロイカを提唱。9月、プラザ合意発表。急激な円高ドル安へ。
1986
  • 4月、ソ連でチェルノブイリ原子力発電所事故が発生、放射能汚染が拡大。

1987 27-28歳

愛知県立芸術大学大学院修士課程修了。修了制作《Innocent Being》は最優秀作品として大学の買い上げになる。大学に博士課程がまだ設置されていなかったため、当時の最終過程である研究科へ進学することを考えたが、願書を出しそびれてしまい進学を断念する。予備校講師を続けながらそのまま名古屋に滞在する。
パンクバンド、ザ・ブルーハーツがシングル『人にやさしく』でデビューする。奈良は同バンドの歌詞を自作に引用するなど、その音楽や姿勢に影響を受けた。
8月25日から10月2日まで3度目となるヨーロッパ旅行を行う。ドイツ・カッセルで開催された国際美術展「ドクメンタ8」(ディレクター:マンフレート・シュネッケンブルガー)を鑑賞後、デュッセルドルフの友人を訪ねた。一人で渡独し制作に励む彼の姿に刺激を受け、奈良はすぐに作家になるのではなく、ドイツの大学で学び直すことを考える。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』pp.40-42
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.242
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.28, 178-185
3度目となるヨーロッパ旅行での旅日記

社会の出来事

1987
  • 3月、安田火災海上保険がゴッホ《ひまわり》を当時の史上最高額53億円で落札。9月、村上春樹『ノルウェイの森』が出版、ベストセラーに。

1988 28-29歳

グループ展「フィーリング・ハウス展」(三重県立美術館県民ギャラリー)、個展「Innocent Being」(ギャルリーユマニテ名古屋・東京)を経て、5月28日、予備校の生徒たちに見送られながら渡独。友人から引き継いだデュッセルドルフ・シューマン通り69番地の屋根裏部屋で暮らし始める。
語学学校ゲーテ・インスティチュートに3カ月間通い、受験準備の末、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに合格し、9月から正式に学生となる。入学後、入試で提出した作品が最高点だったことを、生徒会として選抜に立ち会った学生から聞く。
当時のデュッセルドルフはベルリンの壁崩壊前で、ドイツのアートシーンをリードする都市として活気があった。ドイツ語が十分に話せなかった奈良は、言葉にならない思いを絵で伝えようと努める。留学によってオールドマスターの名作を現地で鑑賞でき、現代アートの動向にも触れやすくなった一方で、美術の外側にある人々の営みに関心が向かい始める。

出典

  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.82-83
  • 『疾駆』10、pp.35, 37, 75-76

社会の出来事

1988
  • 3月、青函トンネル開業。青函連絡船が約80年の歴史に幕。4月、アフガン和平協定調印、翌5月にソ連軍が撤退。11月、『ちびくろサンボ』を刊行していた出版社各社が人種差別的との批判を受けて自主絶版。

1989–1993 デュッセルドルフ

平成の始まりとともに、日本はバブル景気の崩壊を迎える。世界でも大きな転換が起こり、ドイツの東西分断は終結し、ソビエト連邦も崩壊した。

1988年に渡独し、翌年、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーへ入学。アルバイトをしながら制作に励み、1991年にはA. R. ペンクのクラスに移る。ペンクの言葉をきっかけに奈良の目指す絵画表現が具体化し、記念碑的作品《Girl with a Knife in Her Hand》が誕生。1993年にアカデミーを修了し、ドイツや日本で個展を開催する。

1989 29-30歳

1年次の修了審査に合格し、絵画やインスタレーションで知られる美術家ミヒャエル・ブーテのクラスに進級(翌年夏頃までの2学期間在籍)。日本時代と同様に子供や動物をモチーフとしつつ、「誰かに観られること」への意識が薄れ、自分にとって大切なものを描く姿勢が強まる。年1回の学内展示では、のちに展覧会を開催するギャラリーから注目される。
生活費は日本料理店の皿洗いや見本市の設営などのアルバイトで賄いながら、ソニックユースやフレーミングリップスなどのバンドのライブにも足を運んでいた。
11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、ドイツの東西分断が終結。崩壊の光景を友人とともにテレビで目にし、人々の行動が社会を動かす力になり得ることを実感する。また、クラスメートたちが活発に議論を交わす姿を目の当たりにし、若い世代が自ら声を上げることの大切さを学んだ。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』、pp.53-54, 58-60
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.96
  • 『疾駆』10、p.39
屋外での制作

社会の出来事

1989
  • 1月、昭和天皇崩御。皇太子明仁親王が即位、新元号「平成」へ。6月、北京で第二次天安門事件が発生。11月、ベルリンの壁が崩壊、翌年に東西ドイツが再統一。12月、米ソによるマルタ会談で冷戦の終結が宣言。

1990 30-31歳

海外での初めてとなる個展をギャラリー・デント(オランダ、アムステルダム)で開催する。
秋にグラフ=レッケ通り209番地にある家賃が安い学生寮に引っ越す。そこにはドイツ人だけではなく、東欧やベトナムなどから移り住んだ若者たちも暮らしていた。なかでも、ベトナム戦争で難民となった留学生たちとの出会いは、奈良の中に戦争の現実を深く刻みつけた。
デュッセルドルフ近郊のクレーフェルトで活動していたインディーズバンド、バーディ・ナム・ナムズのメンバーが学内展示を訪れ、奈良の絵を気に入る。レコードジャケットのためにアートワークを依頼され、音源の面白さもあって、その翌日に奈良はペインティング《Pandora's Box》を提供する。作品はアルバム『真ん中 over the world』(1991年発売)のジャケットを飾り、これが奈良にとってクリエイターに作品イメージを提供する初めての経験となった。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』p.54
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.96

社会の出来事

1990
  • 2月、日本経済がバブル崩壊へ。5月、WHOが同性愛を国際疾病分類から除外。8月、イラクがクウェートに侵攻、翌年1月に湾岸戦争が開戦。

1991 31-32歳

ミヒャエル・ブーテの死去により、A. R. ペンクのクラスに転じる。学生たちは、ペンクが私費で郊外の工場跡に借りていたスタジオ(ルイーゼン通り25番地)を利用することができた。奈良も学生寮からこのスタジオへ拠点を移し、渡独後初めてここに電話を設置する。それまでは日本とのやり取りは国際郵便が中心で、とりわけ予備校時代の教え子から届く手紙が奈良を大いに励ました。
ペンクとは多くの話をしたわけではなかったが、「君は紙に絵を描く絵はとても良いのになぜカンヴァスの前になると身構えてしまうんだ。ドローイングをするようにカンヴァスに向き合えばいい」との助言を受け、複雑だった背景の描写をそぎ落とし、簡素なものにしていった。表現したいイメージとアカデミズムの方法論を結び付ける試行錯誤から生まれた絵画《Girl with the Knife in Her Hand》は、その後の作風を方向づけることになる。同作はアカデミーの学内展示で立体作品とともに発表された。この展示によって、若手作家の登竜門として知られていたケルンの著名なギャラリー、ギャラリー・ヨーネン・プルス・シャットルに見出される。
渡独後初めてとなる日本での個展「cogitationes cordium 心の中のいろいろな思い」(ギャルリーユマニテ名古屋)を開催。同展のレビューが雑誌『美術手帖』で初めて紹介される。

出典

  • 奈良美智、村上隆「村上隆×奈良美智 温泉対談【後編】」『美術手帖』美術出版社、52(790)、2001年、p.142
  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』pp.20-21
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.53
  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.80

社会の出来事

1991
  • 11月、フレディ・マーキュリー死去。エイズへの偏見が社会問題となる。12月、ソ連が崩壊。同、マーストリヒト条約調印により欧州連合(EU)創設へ。
1992
  • 2月、日本政府がバブル景気の終結を認定。同、マーストリヒト条約調印により欧州連合(EU)創設へ。3月、英国サーチ・ギャラリーで「ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ(YBA)展」開催。4月、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が発生。6月、国連平和維持活動(PKO)協力法が成立。

1993 33-34歳

ペンクよりドイツの芸術大学における学位マイスターシュウラーを授与され、デュッセルドルフ芸術アカデミーを修了した。その後もルイーゼン通り25番地のスタジオに居を構え続けた。
トーマス・ルフらベッヒャー派の写真家を紹介していた、ケルンのギャラリー・ヨーネン・プルス・シャットルでドイツ初となる本格的な個展を開催する。展覧会には《Girl with the Knife in Her Hand》などを出品した。
ギャルリーユマニテ名古屋とギャルリーユマニテ東京にて「Be Happy」展を開催。

出典

  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』pp.23-24
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.56

社会の出来事

1993
  • 6月、草間彌生がヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として参加。同、国連世界人権会議で「ウィーン宣言」を採択。8月、自民党による55年体制が崩壊、非自民連立政権が発足。

1994–2000 ケルン

1995年に阪神・淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生し、社会に不穏な空気が漂った。コンピューターや携帯電話の普及が進み、ネットワークを介して個人が情報発信する時代が始まる。

1994年にケルンへ移住。1995年、スカイザバスハウスでの個展「深い深い水たまり」をきっかけにアメリカでも展覧会を開催。さらに、ロックバンドや映画、書籍への作品イメージの提供など、他分野とのコラボレーションが本格化する。1999年にはファンによるウェブサイト「HAPPY HOUR」が開設された。2000年に日本へ帰国。

1994 34-35歳

ギャラリー・ヨーネン・プルス・シャットルの紹介により、ケルンのオイペナー通り57-59番地にある旧紡績工場を改装したスタジオに移った(2000年6月まで滞在)。広大な空間は制作には向いてたが、生活環境としては必ずしも快適ではなかった。ここではアメリカ人アーティストのダン・アッシャーや、1980年代に東京藝術大学大学院彫刻科へ留学していたチャールズ・ウォーゼンと交流を持った。アッシャーの表現は写真・絵画・彫刻と多岐にわたり、とりわけ1970年代後半のニューヨークの音楽シーンを捉えた写真は奈良を強く刺激した。アッシャーとウォーゼンは奈良の作品にも意見を述べ、スタジオでの会話が主に英語だったことから、奈良の語学力は自然と向上していった。
同年の冬には、愛知県立芸術大学の後輩である森北伸の協力を得て、初めてFRPを素材とした大型の犬の立体作品《望郷 DOG》を制作。翌年の個展「深い深い水たまり」で発表し、以降もFRPを用いた立体作品に取り組む。
さらに日本では二つの個展「Lonesome Babies」(白土舎、名古屋)、「眠れる子供のクリスマス」(イトーキ・クリスタルホール、大阪)を開催。名古屋市芸術奨励賞受賞。

出典

  • 「制作の現場1 FRPじゃなきゃできないかたちってあると思う」『美術手帖』51(769)、美術出版社、1999年、pp.12-15
  • 奈良『ちいさな星通信』、pp.65-68
  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』p.25
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.86-91

社会の出来事

1994
  • 4月、ルワンダで大量虐殺が発生。4月、南アフリカで初の全人種参加選挙を実施、ネルソン・マンデラが大統領に就任。7月、青森市の三内丸山遺跡で大型掘立柱建物跡が発見。

1995 35-36歳

この年を境に奈良の活動は大きな広がりを見せていく。奈良が実質的なデビューと語る個展「深い深い水たまり」をスカイザバスハウス(東京)で開催。代表作となる《深い深い水たまり II》、《Harmless Kitty》が出品され、若い観衆を中心に話題となった。
ギャルリーユマニテ東京でも個展「Nothing Gets Me Down」を開催。同展に展示された《Yellow in Blue》は、雑誌『美術手帖』の「快楽絵画」特集にて表紙を飾る。
アメリカでの初個展「Pacific Babies」をロサンゼルスのギャラリー、ブラム・アンド・ポーで開催。展覧会のために初渡米する。同ギャラリーオーナーのティム・ブラムが個展「深い深い水たまり」を観たことが開催のきっかけとなった。展覧会は現地の新聞や雑誌に取り上げられ、評判となる。奈良は初めてヨーロッパでも日本でもない、なんの足がかりもない場所に行ったことで、作家として生きていく自覚を持つ。
公立美術館で初めてとなるグループ展「絵画の方向'95」(大阪府立現代美術センター)に参加。

出典

  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』pp.26-30
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.68, 75, 92-93

社会の出来事

1995
  • 1月、阪神・淡路大震災が発生。3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。8月、米国でマイクロソフトが『Windows 95』を発売(日本語版は11月)。

1996 36-37歳

日本の公立美術館での展覧会が続けて開催される。グループ展「TOKYO POP 新しい美術のイメージ展」(平塚市美術館)、グループ展「ヒニクなファンタジー 現代5人の想像世界」(宮城県美術館)へ参加。村上隆、会田誠、太郎千恵藏、森万里子らとともに「日本の新しいポップ」を代表するアーティストとして注目を集める。
日本での個展のために来日していたアメリカのアーティスト、ポール・マッカーシーやマイク・ケリーと交流を持つ。奈良は、自身がアメリカのアーティストたちと近しい感性を持っていると自覚する。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.96
  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』p.29
ポール・マッカーシーと

社会の出来事

1996
  • 4月、日本初の商用検索サイト「Yahoo! JAPAN」がサービス開始。7月、スコットランドでクローン羊「ドリー」が誕生。12月、原爆ドームが世界文化遺産に登録。

1997 37-38歳

初作品集『深い深い水たまり』(角川書店)が出版される。奈良がファンであった吉本ばななが寄稿した。お互いに音楽好きであったことから親交を深め、のちに吉本の小説『ハードボイルド/ハードラック』、『ひな菊の人生』、『アルゼンチンババア』(いずれもロッキング・オン)におけるコラボレーションへと発展していく。こうした書籍は、美術愛好者以外にも奈良の作品を広く知らしめた。
グループ展「VOCA展 '97 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」上野の森美術館(東京)に選出される。グループ展「日本現代美術展」ソウル国立現代美術館(韓国)に参加。
個展「Drawing Days」白土舎(名古屋)を開催。同会場で、会期後に続けて「World Peace Cafe」を開催。同展は、共感する人々が集い、心地よく過ごせる空間を目指したもので、その考えはのちの小屋やインスタレーションにも引き継がれている。
初のパブリックアート《World Is Yours》を横浜・上大岡「ゆめおおおか・アートプロジェクト」として設置。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』pp.98-100
  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』pp.31-32

社会の出来事

1997
  • 5月、アイヌ文化振興法が公布。6月、メディア・アートや写真・映像を軸とした「ドクメンタ10」開催。7月、香港が英国から中国へ返還。12月、地球温暖化防止京都会議(COP3)で京都議定書を採択。

1998 38-39歳

アメリカのアーティスト、ポール・マッカーシーの推薦により、5月から7月にかけてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の客員教授を務める。当時、奈良はUCLAの大学院に留学したいと考えていたため願ってもない機会となった。村上隆とともに招聘され、職員寮で共同生活を送る。奈良は大学院の絵画科、村上は学部のメディア論を受け持った。英語で講義しなければならないことや、それまであまり接点のなかった村上との生活に緊張を感じていたが、徐々に打ち解けていった。
80年代後半から海外で活躍するロックバンド、少年ナイフのメンバー山野直子の依頼でアルバム『Happy Hour』のためのドローイングを制作し、カバーアートとなる。
美術館の機能を持つ施設で行う初めての個展をウィスコンシン大学ミルウォーキー校のInstitute of Visual Arts(ウィスコンシン州)で開催。
出身地・青森県の県立美術館準備室(2006年開館)に、奈良のペインティングやドローイングなど124点が収蔵される。
12月にドローイング集『Slash with a Knife』(リトルモア)を出版。
コンピューターを使い始め、インターネットを介してグローバルなコミュニケーションができるようになる。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』pp.81-82, 85
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.100
  • 古川日出男、奈良美智「転ぶこと、立ち上がること」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』49-13(通巻706)、青土社、2017年、p.60
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.190, 192-194

社会の出来事

1998
  • 2月、長野冬季オリンピックが開催。5月、インドとパキスタンが相次いで核実験を実施。

1999 39-40歳

年始の個展「Walking Alone」(資生堂ザ・ギンザアートスペース、東京)を皮切りに、グループ展「時代の体温 ART/DOMESTIC」(世田谷美術館、東京)、ニューヨークでの初個展「Pave Your Dreams」(マリアン・ボースキー・ギャラリー、ニューヨーク)など、この頃から絶えず世界中で展覧会が開催されるようになる。
6月1日にファンの一人であるnaoko.が運営するファンサイト「HAPPY HOUR」を公開。美術家のファンがウェブサイトを作るという試みは先進的なものであった。非公式でのスタートだったが、8月には奈良が日記や写真を寄稿し公認となる。「顔も知らない人なのに、俺以上に俺の作品を好きな人たちに初めて会った感じだった」と奈良自身が語ったように、ファンとの交流の場として大きな役割を持った。
1980年から敬愛している名古屋のパンクバンド、ザ・スタークラブのアルバム『Pyromaniac』のデモテープを聴いて描いた作品《Pyromanic Day》と《Pyromaniac Dead of Night》が、そのCDのカバーアートとなる。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』、p.98
  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』pp.100-102
  • クーン、河野『終わらないものがたり』p.96, 98, 188

社会の出来事

1999
  • 1月、欧州11カ国が新通貨「ユーロ」を導入。

2000 40-41歳

3月に個展「Walk On」(シカゴ現代美術館)と「Lullaby Supermarket」(サンタモニカ美術館、ロサンゼルス)をアメリカで開催。ヨーロッパでも個展「In the Empty Fortress」(ギャラリー・ヨーネン・プルス・シャットル、ケルン)、フランスで奈良が本格的に紹介されるきっかけとなった「Presumed Innocent」(ボルドー現代美術館)と展覧会が続く。
村上隆が考案した概念「スーパーフラット」をコンセプトとしたキュレーション展「SUPER FLAT」(渋谷パルコギャラリー、東京・名古屋パルコギャラリー、名古屋・ロサンゼルス現代美術館MOCAギャラリーに巡回)に参加。
ビザの切り替え時期が迫っていたタイミングでケルンのスタジオの取り壊しが決まり、大家から立ち退きを要請される。翌年に横浜美術館での個展を控えていたこともあり、12年間のドイツ滞在を終え、8月に日本へ帰国する。予備校時代の教え子たちの協力を得て、10月からは東京都西多摩郡瑞穂町の米軍横田基地のそばにある二階建てのプレハブにアトリエ兼住居を構え、制作に没頭する。
月刊『ちくま』(筑摩書房)11月号に鶴見俊輔との対談「視線そのものに思想が」が掲載される。
ニューヨーク近代美術館に、ドローイング130点が収蔵される。

出典

  • 児島「40年間の旅ノート:そしてピルグリムの旅は続く」『美術手帖』p.102
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.105-114
  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.60

社会の出来事

2000
  • 6月、史上初の南北朝鮮首脳会談が開催。7月、九州・沖縄サミットが開催。

2001–2005 東京

アメリカ同時多発テロは、現実離れした凄惨な映像がリアルタイムで世界中に伝えられ、社会に大きな衝撃を与えた。

2001年、横浜美術館で個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」が開幕し、同館最大の動員を記録。奈良の存在が広く認知される。2002年に雑誌企画で訪れたアフガニスタンで、過酷な状況下にもかかわらず力強く生きる子供たちに出会った経験は、奈良の作風に変化をもたらした。

2001 41-42歳

国際的に活躍する若手作家を集めたグループ展「Public Offerings」(ロサンゼルス現代美術館)に参加。
日本の美術館としては初めて、かつ最大規模となる個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館で開幕。同館の最大動員数を記録し、日本国内で奈良が広く認知されるようになる。翌年にかけて同展は芦屋市立美術博物館、広島市現代美術館、北海道立旭川美術館、吉井酒造煉瓦倉庫の国内5カ所を巡回。
展覧会では、ペインティングの代表作を中心に、皿状の支持体に綿布のパッチワークを施して人物を描いた新作のディッシュペインティング、FRPによる立体彫刻、小屋型ドローイングのインスタレーションなどを出品し、奈良にとって記念碑的なものとなった。
『ユリイカ』(青土社)10月号「特集=村上隆vs奈良美智」内で、吉本隆明と対談。
雑誌『H』(ロッキング・オン)に自伝的エッセイ「ちいさな星通信」の連載が始まる(2004年まで)。
世界的なロックバンド、R.E.Mの11月に発売されたシングル曲「I'll Take the Rain」のアートワークを手がける。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』、p.102
  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』p.33
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.188-189

社会の出来事

2001
  • 4月、独立行政法人制度施行、美術館・博物館の運営体制を刷新。同、東京都現代美術館で「村上隆展」が開幕。9月、米国同時多発テロ事件が発生。翌月に米国がアフガニスタンを空襲。

2002 42-43歳

前年から巡回していた個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が故郷・弘前の吉井酒造煉瓦倉庫で閉幕する。煉瓦倉庫は大正時代に建てられた歴史的建造物で、今まで美術展の会場に使われたことはなかったが、地元の有志が組織した実行委員会によって巡回が実現した。延べ4600名にのぼるボランティアにより運営され、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて画期的なものとなった。また、展覧会の開催に際し、弘前に住む奈良の知人たちが寄付を行い、奈良を感動させた。
季刊誌『FOIL』(リトルモア)の創刊特集企画「No War」の取材で、編集者の竹井正和と写真家の川内倫子とともにアフガニスタンへ赴く。20年にわたる内戦を経て荒廃した土地の姿は奈良の心を強く揺さぶり、そこで暮らす遊牧民たちの生活は、自身の故郷の情景とも重なっていた。
弘前での巡回展とアフガニスタンの経験は、奈良の故郷に対する思いを新たにし、その結びつきを強めるきっかけとなる。
アフガニスタンを出国してすぐにニューヨークへ移動し、ニューヨーク近代美術館クイーンズ分館でのグループ展「Drawing Now: Eight Propositions」に参加。

出典

  • 奈良『ちいさな星通信』pp.104, 106
  • 『疾駆』10、p.16
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.99-104, 200-212
アフガニスタンで撮影した写真

社会の出来事

2002
  • 5月、アジア初の日韓共同開催FIFAワールドカップが開催され、日本代表がベスト16へ。9月、小泉純一郎首相が北朝鮮を初訪問。日朝首脳会談で金正日が日本人拉致を公式に認める。

2003 43-44歳

1月から2月にかけてパリに滞在し、パリ国立高等美術学校の客員教授を務める。
予備校時代の教え子であり、親しく交流を続けていた画家・杉戸洋とともに奈良はウィーンで3度の滞在制作を行う。共同制作による作品も生まれた。
大阪のデザイン会社、クリエイティブ・ユニットgrafとのコラボレーションが始まる。奈良は「古いものには時間が物理的に染みついている」と語り、廃材の質感を生かした小屋のインスタレーションを制作した。大阪のグラフメディア・ジーエムで開催された「S. M. L.」展では、S・M・Lの3サイズから成る小部屋を会場内に設け、それぞれに作品を展示するとともに、滞在制作を行った。以後もgrafとのコラボレーションは続き、世界各地の展覧会で小屋のインスタレーションを発表していく。
grafとチームを組んで行った活動を通じて、奈良は他者、すなわち社会との関わりのなかで制作することを知り、自分が社会の一員であることを意識するようになる。

出典

  • 奈良美智、豊嶋秀樹、川俣正「奈良美智+graf-『A to Z』への長い長い旅 巻頭鼎談」『美術手帖』57(871)、美術出版社、2005年、pp.18-24
  • 加藤磨珠枝(聞き手)「奈良美智 ロングインタビュー」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』美術出版社、2013年、p.563
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.140-155

社会の出来事

2003
  • 3月、米英連合軍がイラクへの侵攻を開始。3月、『千と千尋の神隠し』が第75回アカデミー賞長編アニメ部門賞を受賞。6月、第50回ヴェネツィア・ビエンナーレが開幕。10月、森美術館が六本木ヒルズ内に開館。

2005 45-46歳

親交の深い日本のオルタナティブロックバンド、ブラッドサースティ・ブッチャーズのアルバム『banging the drum』に作品イメージを提供。これをきっかけに、同バンドとのアートワークのコラボレーションはその後も続いていく。
広島市現代美術館からのコミッションにより、原爆投下のイメージを意識した《Missing in Action–Girl meets Boy–》を制作する。
年末には、東京都西多摩郡瑞穂町のプレハブのアトリエから栃木県那須塩原市へ拠点を移し、新たにスタジオを構えた。豊かな自然に囲まれ、落ち着いて制作に取り組める環境は、奈良の作品に変化を与えることとなる。

出典

  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.104-105
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.190-191

社会の出来事

2005
  • 2月、YouTubeが開設され、動画が初投稿。3月、愛知万博が開幕。

2004 44-45歳

前年にオハイオ州のクリーヴランド現代美術館から始まった個展「Yoshitomo Nara: Nothing Ever Happens」が、アメリカ国内を巡回し、サンノゼ美術館とセントルイス現代美術館で開催された。サンノゼ美術館のオープニングには多くのアジア系の人々が来場し、温かく迎え入れられる。その経験を通じて奈良は、自身がいかに限られた枠の中で物事を見ていたかに気づき、日本のアーティストとしてだけでなく、アジアを代表する存在としての自覚を持つようになる。
個展「From the Depth of My Drawer」が原美術館(東京)で開幕。翌年にかけて吉井酒造煉瓦倉庫(弘前)やロダンギャラリー(ソウル)など国内外5カ所へ巡回した。
横浜美術館でのグループ展「ノンセクト・ラディカル 現代の写真III」に参加し、grafが制作協力した《アフガン小屋》の中で写真作品《Kabul Note 2002》をスライド上映した。

出典

  • 蔵屋美香(聞き手)「対談 奈良美智×蔵屋美香」『奈良美智:The Beginning Place ここから』青幻舎、2023年、pp.300-301
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.155-156

社会の出来事

2004
  • 1月、陸上自衛隊がイラクへ派遣。2月、Facebookが創業。12月、スマトラ島沖地震が発生。

2006–2010 那須

アメリカで発生したサブプライムローン問題とリーマンショックは、世界経済に大きな不況をもたらした。

栃木県那須塩原市にスタジオを構える。2006年、青森県弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で「Yoshitomo Nara + graf A to Z」展が開催。同年、金沢21世紀美術館での個展「Moonlight Serenade ─月夜曲」を機に、2003年から協業を続けてきたgrafとの共同制作が節目を迎える。2007年より滋賀県甲賀市信楽町でセラミック作品の制作を始める。

2006 46-47歳

那須のアトリエに転居した前年の暮以降、作風には静けさが加わり、社会的なテーマにも目を向けるようになる。《Agent Orange》《After the Acid Rain》《Eve of Destruction》《White Night》など、この時期を代表する作品が生まれた。
過去に2度の個展を開催した故郷弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で「A to Z: Yoshitomo Nara + graf」展が開催される。倉庫内には大小44棟の小屋が設営され、grafとのコラボレーションの集大成といえる内容となった。また、小屋に看板を設置するためのアイデアとして考案された、ドローイングを木製パネルに拡大転写して描く「ビルボード・ペインティング」は、その後も継続して制作されていく。
青森県立美術館が開館し、開館準備室時代から収集されてきた奈良の作品群が公開される。同館に隣接する三内丸山遺跡からインスピレーションを受け、建築的スケールを意識して制作された高さ8.5メートルのコミッションワーク《あおもり犬》も公開された。
金沢21世紀美術館にて個展「Moonlight Serenade—月夜曲」を開催。金沢美術工芸大学の学生ボランティアスタッフも制作に参加した大規模な小屋のインスタレーション《Voyage of the Moon (Resting Moon) / Voyage of the Moon》を発表した。

出典

  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.104-105
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.87, 89, 156-163, 224-226

社会の出来事

2006
  • 5月、日米安保協議で普天間基地移設と海兵隊のグアム移転に合意。7月、Twitter(現:X)がサービス開始。9月、第1次安倍晋三内閣が発足。

2007 47-48歳

grafとのコラボレーションは海外にも広がり、ドイツやオランダ、スペインなどで個展が開かれる。
その頃、滋賀県立陶芸の森の学芸員から招聘され、奈良は同施設で滞在制作を行うこととなる。奈良はそれまで陶芸に関する深い知識はなかったが、白紙の状態で臨んだ制作体験は自己との対話へと立ち戻る機会となった。
「A to Z」展で協力してくれた市民ボランティアへの感謝の気持ちを込めて、奈良は犬の大型立体作品《A to Z Memorial Dog》を制作し、弘前市に寄贈した。
坂部康二監督による「A to Z」展開催までの軌跡を密着した奈良美智のドキュメンタリー映画『NARA:奈良美智との旅の記録』(東北新社)が公開される。

出典

  • 児島やよい(聞き手)「奈良美智 ロング・インタビュー」『美術手帖』美術出版社、62(939)、2010年、pp.28-49
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.247-248
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.165-177
自作《Untitled》のように眼帯をしながら

社会の出来事

2007
  • 6月、初代iPhoneが発売。7月、新潟県中越沖地震が発生、柏崎刈羽原発で火災。8月、米国のサブプライムローン問題が世界同時株安へ発展。

2008 48-49歳

バルティック・コンテンポラリー・アート・センター(イギリス、ニューカッスル)で「A-Z Project: Yoshitomo Nara + graf」展が開催される。

社会の出来事

2008
  • 9月、リーマン・ブラザーズの経営破綻により世界金融危機(リーマン・ショック)が発生。11月、Chim↑Pomによる《ヒロシマの空をピカッとさせる》が物議を醸し、広島市現代美術館での個展が中止。

2009 49-50歳

ニューヨークの地下鉄ユニオン・スクエア駅でグラフィティを描き、警察に拘束されるが24時間後に釈放される。この逮捕によって、大手企業の運営する美術スペースでの展覧会が中止となる。奈良は、企業の文化事業がプロモーションを目的としていることを思い知らされ、喪失感を覚える。自身に与えられる社会的な価値が一方的に評価されているように感じ、そこから距離を取るように、次第に内面や個へと意識が向かっていく。
児童買春をテーマにしたアメリカのドキュメンタリー映画『PLAYGROUND: The Child Sex Trade in America』(監督:リビー・スピアーズ)にイメージを提供する。奈良の作品を元にアニメーションが制作され、公開される。
「放課後のはらっぱ-櫃田伸也とその教え子たち-」(愛知県美術館、名古屋)に参加。同展は、愛知県立芸術大学で教鞭を執った櫃田伸也とその教え子たちによる展覧会で、企画協力を杉戸洋、森北伸と共に行う。櫃田は奈良の直接の担当教員ではなかったが、奈良が私淑する画家の一人である。
11月27日にTwitter(現:X)へ初投稿して以来、現在に至るまで日々の出来事を発信し続けている。

出典

  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.107-108

社会の出来事

2009
  • 1月、バラク・オバマが米国初の黒人大統領に就任。2月、オノ・ヨーコが第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞。8月、衆院選で民主党が圧勝し、自民党から政権交代が実現。

2010 50-51歳

小山登美夫ギャラリー(東京)で、2007年から制作を続けていた陶芸作品による初の個展「セラミック・ワークス」を開催。2メートル70センチを超える彫刻的ともいえる大型作品《White Riot》を発表する。アメリカ東海岸で初となる大型個展「Yoshitomo Nara: Nobody's Fool」をアジア・ソサエティ美術館(ニューヨーク)で開催。ニューヨーク国際センターより、アメリカ社会に貢献した文化人に贈られる賞「The International Center in New York(現・International Center of Catholic Charities Community Services)」を受賞。

出典

  • 児島やよい(聞き手)「奈良美智 ロング・インタビュー」『美術手帖』美術出版社、62(939)、2010年、pp.28-49
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.165-177, 339

社会の出来事

2010
  • 10月、Instagramがサービス開始。12月、東北新幹線が新青森まで延伸開業。同、チュニジアの抗議運動を機に「アラブの春」が中東・北アフリカ全域へ拡大。

2011–2017 震災以降

東日本大震災が引き起こした福島第一原子力発電所事故はエネルギー政策をめぐって国際的な議論を呼び起こした。

奈良は被災した人々の悲しみに強く揺さぶられ、自問自答を重ねるなかで東北を訪問し、現地の人々との交流を深めていく。震災直後は絵筆を取ることができず、ブロンズ彫刻の制作へと向かった。2012年には個展「君や僕にちょっと似ている」(横浜美術館ほか)を開催し、震災以後の心境の変化を昇華した新境地を示す。さらに、反原発・反戦運動との関わりを深めながら、自身の考えを映し出した作品を社会へと提示していく必要を感じ始める。

2011 51-52歳

3月11日、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が起こる。震災が起きた時、奈良はアトリエのある那須を車で走行中だった。那須と福島第一原発の距離は約100キロメートルであり、災害が現実のものとして強烈に実感された。自然の猛威や他者の悲しみ、苦しみを目の当たりにしたことで、奈良はこれまでの人生や創作の根源を見つめ直すことになる。震災のように命に直結する状況において、美術はまず優先されるものではない。そうした現実は、奈良に自分が何ができるのかを否応なく考えさせた。
また、インスピレーションの源となっていたパンクロックのカウンター性だけでなく、パンク以前の音楽に宿る支え合いの精神にも改めて共感を寄せる。こうした1960年代の音楽に見られるような連帯感は、奈良にとって社会の中で自分が何をすべきか、また地方とどのように関わっていくべきかを考えるうえで、重要なテーマとなっていった。
5月に避難所となったあづま総合体育館(福島市)で子供たちを対象にしたワークショップ「Koi 鯉 ハッピー ショー」を、6月には福島県立相馬東高等学校で美術部の生徒を対象にしたスライドレクチャーを行い、子供たちのまっすぐな姿が奈良にとって励みとなった。被災した人々とのSNSを介した交流によって実現したワークショップは、個々のつながりの大切さを強く印象づけるものとなった。
過去にタイのバンコクにおける反核デモに使用された経緯のあるドローイング《No Nukes》(1998年)の図像が、この頃から奈良公認のもと国内での反原発、脱原発のデモのプラカードにも用いられ始める。スリーマイル島の原子力発電所事故に対する反発運動で子供たちがプラカードを持ってデモをする写真から着想を得て描かれた同作は、制作から13年後、作品と重なる社会的状況の中で再び注目を集めることとなった。
被災地でもある水戸芸術館で震災後すぐに行われたグループ展「CAFE in Mito 2011―かかわりの色いろ」に参加。
8月末、初めてブロンズによる立体作品の制作に取り組む。母校である愛知県立芸術大学にビジティング・アーティストとして約半年間滞在し、ブロンズの原型となる塑像を制作する。粘土との格闘は、純粋に作品をエネルギーと向き合いたいという思いを原点としていた。
美術出版社から『奈良美智全作品集 1984–2010』が出版される。

出典

  • 小西「ロングインタビューーfor better or worse」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.107-109
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.249-252
  • 加藤磨珠枝(聞き手)「奈良美智 ロングインタビュー」『美術手帖』美術出版社、64(973)、2012年、pp.34-35, 37-41
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.249-265, 302-304

社会の出来事

2011
  • 3月、東日本大震災が発生。福島第一原発でメルトダウンが起こり、放射性物質が放出。9月、東京で「さようなら原発集会」に6万人が参加。

2012 52-53歳

半年間にわたる愛知県立芸術大学での滞在制作を終え、4月に那須のアトリエに戻る。東日本大震災の発生後、自分が果たすべき役割について考え続けていた。奈良は、夏に予定されていた横浜美術館での個展について、集大成的な構想を白紙に戻し、社会とのつながりを意識した内容へと再構築した。
横浜美術館で、新作個展「君や 僕に ちょっと似ている」が開幕する(翌年にかけて青森県立美術館、熊本市現代美術館へ巡回)。新作の絵画に加え、愛知で初めて制作したブロンズ彫刻も展示され、奈良が持てる力のすべてを注ぎ込んだ展覧会となった。
同展に出品された《春少女》は反原発運動のアイコンとして用いられ、集会場にバナーとして掲げられたり、脱原発をテーマにした音楽イベント「NO NUKES 2012」のガイドブック『NO NUKES 2012:ぼくらの未来ガイドブック』(小学館スクウェア)のカバーを飾った。
一時期、奈良は作品を制作するには社会と距離を置くべきだと考えていた。しかし、この展覧会を経て、すべての人に向けて作品をつくる必要はないものの、自分が社会の一員であるという意識を持つことが大切だと考えるようになっていった。
個展「青い森の ちいさな ちいさな おうち」が十和田市現代美術館(青森)で開催。美術館の建物の外壁に大規模な壁画《夜露死苦ガール 2012》を制作。同展に連動した「青い森のちいさな美術部」プロジェクトを企画し、公募で選んだ若手アーティストらの作品展「森をぬけて。」を地元商店街の協力を得て開催した。
『美術手帖』10月号で感性に響いたレコードジャケットについて奈良自身が解説する連載「10代の頃、僕はレコードジャケットで美術を学んだ。」が始まる(2012年10月号から2015年6月号まで全33回)。
この年から、東北で開催されているロックフェス、ARABAKI ROCK FEST. にDJやスライドショーで参加。フェスでのグッズ制作をきっかけに、東日本大震災で被災した子供たちを支援するグッズの制作を始める。

出典

  • 加藤、宮村「語り下ろし・25000字インタヴュー:奈良美智、全活動を振り返る」『奈良美智完全読本 美術手帖全記事 1991-2013』pp.463-465
  • 加藤磨珠枝(聞き手)「奈良美智 ロングインタビュー」『美術手帖』美術出版社、64(973)、2012年、pp.34-41
  • 内田伸一(聞き手)「奈良美智をブロンズに導いたいくつかの変化」『美術手帖』美術出版社、64(973)、2012年、pp.60-61
  • 奈良美智「塑像を振り返って」『美術手帖』美術出版社、64(973)、2012年、pp.64-67
  • 奈良「半生(仮)」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』p.253
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.253-270, 302-304

社会の出来事

2012
  • 6月、反原発デモが首相官邸前で拡大。7月、関西電力大飯原発3号機が震災後初の再稼働。12月、第2次安倍内閣が発足。

2013 53-54歳

森北伸と青木一将を中心としたグループTHE WE-LOWSの一員として、あいちトリエンナーレ2013に参加。「WE-LOW HOUSE」と名付けられた小屋の企画・制作を手がけた。空間はカフェやギャラリー、イベントスペースとして活用され、奈良はライブイベントを企画しながら、ミュージシャンとのつながりを深めていった。十和田奥入瀬芸術祭では「ちいさな音楽祭」のディレクションを担当し、ステージデザインや親交のあるミュージシャンを招き、プログラムを構成した。
原子力の時代における破壊と芸術の問題をテーマにしたグループ展「Damage Control: Art and Destruction since 1950」(ハーシュホーン美術館&彫刻庭園、ワシントン)に参加。
芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)受賞。

出典

  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.304-305

社会の出来事

2013
  • 10月、バンクシーがニューヨークでプロジェクト「Better Out Than In」を実施、SNSで作品探索が社会現象化。12月、特定秘密保護法が成立。

2014 54-55歳

父親の死後、独りになった母親を心配して、たびたび故郷の青森県へ帰省するようになる。母親と昔話をする中で、好きだった母方の祖父が農閑期にサハリンや千島列島へ働きに行っていたことを知り、奈良は北方に興味を持つ。編集者から紹介を受け、以前から北の地に関心のあった写真家・石川直樹とともに、青森、北海道、サハリンへと向かう。旅で撮影した写真や、自身を形作ってきた書籍、レコード、CDなどを集め、翌年にワタリウム美術館(東京)で石川との二人展「ここより北へ」を開催した。
セルフビルドで建てられた集合住宅にある沢田マンションギャラリー(高知)で、個展「3日間の奈良美智・ドローイングショウ」を開催。ギャラリーメンバーとのSNSでのやり取りをきっかけに実現したこの展覧会は、その後も続いていく地方の小さな共同体との協働へとつながる起点となった。
「集団的自衛権の限定的な行使の容認」が閣議決定される。この決定は、翌年の安全保障関連法の成立へと結びつき、戦後日本の政策における大きな転換点となった。こうした世相を受けて、奈良の作品に初期から一貫して込められてきた反戦のメッセージにあらためて注目が集まる。その思想を内包する作品を収めた作品集『NO WAR!』(美術出版社)が刊行された。

出典

  • 『疾駆』10、p.28
  • 奈良美智「サハリン/樺太 I」『ユリイカ 総特集*奈良美智の世界』pp.206-216
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.227-245

社会の出来事

2014
  • 3月、ロシアがウクライナのクリミアを併合。7月、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を閣議決定。

2015 55-56歳

東日本大震災で突きつけられた死の無慈悲さを前に、生きることの意味について深く考えるようになる。そうした思いを反映したタイトルを冠し、アジアでの初めての大規模個展「Life is Only One 無常人生:奈良美智」を、アジア・ソサエティ・香港センター(香港)で開催。
作品を出品していた北海道立三岸好太郎美術館の「ワンワンワンッダフル!」展で講演会を行う。この頃から、北海道各地の美術館や自治体、小規模なカフェなどからも講演会やトークイベントの依頼を受けるようになる。北海道への関心が深まるにつれて、奈良はアイヌの文化や歴史にも興味を抱く。こうしたルーツへの関心は、これまで何度も訪れていた台湾の歴史にも及び、台湾山脈を訪れ、山奥に暮らす原住民(台湾における先住民の呼称)の部落にも足を運んだ。

実家のある青森県弘前市の雪景色

社会の出来事

2015
  • 5月、ザハ・ハディドによる新国立競技場デザイン案が白紙撤回。6月、アメリカで同性婚が合法化。9月、安全保障関連法が成立。国連総会でSDGsが採択。11月、パリ同時多発テロ事件が発生。

2016 56-57歳

10代の頃から聴き続けていたデヴィッド・ボウイが亡くなる。ミュージシャンであり、役者であり、画家でもあったボウイは、生涯を通じて未知の表現に挑んだことで知られている。そんなボウイは、奈良にとって表現し続ける勇気を教えてくれた存在であったと再確認する。
東京国立近代美術館のコレクションの中から作品をセレクトした、同館の小企画「近代風景~人と景色、そのまにまに~奈良美智がえらぶMOMATコレクション」が開催された。
北海道南部にある白老町の一地域、飛生(とびう)へと小旅行に出かける。同地では、若手作家を中心とした飛生アートコミュニティーが活動している。過疎化で閉校となった小学校を拠点に、校舎裏の森林再生活動や、2009年から続く年に一度の芸術祭「TOBIU CAMP」などを開催してきた。奈良はその活動に興味を抱き、交流が始まる。

出典

  • 『疾駆』10、p.28
  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.85
  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.306-324
  • 蔵屋美香(聞き手)「対談 奈良美智×蔵屋美香」『奈良美智:The Beginning Place ここから』青幻舎、2023年、pp.301-302

社会の出来事

2016
  • 4月、熊本地震が発生。6月、英国国民投票でEU離脱(Brexit)が決定。10月、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞。11月、ドナルド・トランプが米大統領選で勝利。

2017 57-58歳

母校である愛知県立芸術大学に近い豊田市美術館で、初期から最新作までの代表作を国内外から集めた大規模な個展「for better or worse」を開催。
飛生アートコミュニティーにて、レジデンス・アーティストとして1ヶ月間滞在し、「飛生芸術祭 2017 僕らは同じ夢をみる」に参加。地域に住む子供たちやその家族との交流の中で描かれた新作もあり、世界的な美術館やアートギャラリーでの展覧会とは異なる、地域と密接につながった表現が生まれた。
アイヌ文化への理解を深める中で、首都圏に暮らすアイヌ民族の人々による祭り「アイヌ感謝祭」に初めて招かれ、トークイベントを行った。

出典

  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.306-318

社会の出来事

2017
  • 6月、文化庁の京都移転が決定。10月、SNSでのセクハラ告発を機に「#MeToo」運動が世界へ拡散。

2018–2023 故郷への回帰

新型コロナウイルスの感染拡大は、日常生活を失いながらも、社会の仕組みを変える転換点となった。ロシアのウクライナ侵攻は、国際秩序を揺るがす問題となる。

奈良のルーツである青森や北方について、ローカルなコミュニティとの交流を通じて探求を続ける。2023年には故郷の青森県立美術館で個展「The Beginning Place ここから」が開催された。学芸員の視点を通して創作の原点を浮き彫りにした本展は、奈良の作家像に新たな輪郭を与えた。台湾などアジア圏での展覧会も増加している。

2018 58-59歳

奈良は、自身の作品をより身近に鑑賞できる場をつくりたいという思いから、栃木県那須塩原市に私設の展示スペース「N's YARD」をオープンする。奈良の作品のほか、自身がコレクションしている作家の作品や、収集してきたレコードや人形なども展示されている。
北海道の友人・小和田久美子が経営する「メーメーベーカリー」(北海道斜里町)の店舗移転にともない、中標津町出身のミュージシャン・細海魚とともに、自主企画のライブドローイングイベント「BYE BYE ME-ME- FAREWELL PARTY」を開催。音楽と共に描くライブドローイングは、その後もミュージシャンとの共演やイベントにおいて、たびたび実演されるようになる。
2023年に奈良にとって初めての本格的作家論を執筆する美術史家のイェワン・クーンがキュレーションする光州ビエンナーレに参加し、インスタレーション「飛生にて」を発表。
前年に続き参加を予定していた飛生芸術祭の準備中、北海道胆振東部地震に見舞われる。芸術祭は中止となった。
ジョージアの国民的な画家で、放浪の画家とも呼ばれるニコ・ピロスマニをテーマにしたグループ展「Niko Pirosmani」(アルベルティーナ美術館、ウィーン)に参加。

出典

  • クーン、河野『終わらないものがたり』pp.294-298
  • 『Casa BRUTUS:奈良美智と家』p.92

社会の出来事

2018
  • 3月、森友・加計学園問題をめぐる公文書改ざんや便宜供与疑惑が深刻化。6月、シンガポールで初の米朝首脳会談を開催。9月、北海道胆振東部地震が発生。

2019 59-60歳

自然災害の被災者や、紛争により難民・国内避難民となった人々を支援するNPO法人「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」の呼びかけで、ヨルダンのシリア難民キャンプを訪問。難民生活を体験し、支援の一環としてグリーティングカードのデザインを手がける。
作品や関連資料の保存・公開・普及を目的に、「一般財団法人奈良美智財団」が設立される。公式アーカイブとしてのウェブサイトのほか、オンライン・カタログレゾネ「YOSHITOMO NARA The Works」の制作に取り組む(2021年に公開)。
60歳の誕生日を記念し、友人の主催によるライブイベント「N's 60 -YOSHITOMO NARA 60th BIRTHDAY PARTY-」が恵比寿LIQUIDROOMで開催される。作品や人柄に惹かれ、交流を深めてきたミュージシャンたちが集った。

社会の出来事

2019
  • 5月、天皇即位により新元号「令和」へ改元。6月、香港で大規模な反政府デモが発生・長期化。8月、あいちトリエンナーレで「表現の不自由展・その後」が中止。9月、グレタ・トゥーンベリが国連で気候変動対策を求める演説を実施。

2020 60-61歳

新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が世界的に拡大し、パンデミックとなる。感染予防や外出自粛が呼びかけられ、社会全体に深刻な影響をもたらした。奈良も展覧会の予定が変更となり、延期を余儀なくされた。ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアム(LACMA)で、海外での初めての本格的な回顧展「Yoshitomo Nara」が予定されていたが、翌年に持ち越される。
森美術館(東京)で開催されたグループ展「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界」に、草間彌生、李禹煥、宮島達男、村上隆、杉本博司らとともに参加。

社会の出来事

2020
  • 1月、新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大。WHOがパンデミックを宣言。5月、全米各地で人種差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」が激化。

2021 61-62歳

台北の国立台北藝術大学關渡美術館、高雄市立美術館、台南市美術館を巡回した個展「Yoshitomo Nara」のために、台湾への思いを込めた新作《Hazy Humid Day》を描き上げる。
札幌市と小樽市の雑貨店、飲食店、美容室など13店を会場にした写真展「Though no one may notice, the world knows all that you have seen.」を開催。また小樽市の裏通りで開催されたイベント「ウラオタル Baza-Art」の中で行われた小展示「Love From the Sea」、そして展示アドバイザーとして参画した「虎杖浜・アヨロ:歩いて巡る屋外写真展」など、小さな共同体との関係性を軸としたプロジェクトが続く。日常の景色の中に作品を展示することで、普段美術に触れる機会の少ない人々との交流も生まれた。

社会の出来事

2021
  • 1月、バイデンが米大統領に就任。4月、米軍がアフガニスタンからの撤収を開始。7月、東京五輪が開幕。8月、IPCCが気候変動の原因を人為的活動と断定する報告書を発表。

2022 62-63歳

「拡大彫刻」と奈良が呼ぶ大型の立体作品《Peace Head》が各地で展示される。手のひらサイズの粘土原型を拡大したうえで、ブロンズやアルミニウムによって鋳造し、高さ2メートル40センチを超える作品として制作された。ハノーバースクエア(ロンドン)に設置されたほか、角川武蔵野ミュージアム(東京)に収蔵された作品が野外展示されている。
国際芸術祭「あいち2022」に参加し、一宮市の歴史的建造物を会場に《Miss Moonlight》と《Fountain of Life》を中心に展示を構成する。
北海道や東北での活動を続け、北海道虻田郡洞爺湖町の子供たちと共同制作プロジェクト「ふらっと奈良さんと」を行い、完成作品はアトリエとして使っていた「トイタ裏」で展示された。
また、吉井酒造煉瓦倉庫(現・弘前れんが倉庫美術館)で過去に3度開催された奈良美智展を振り返る展覧会「もしもし、奈良さんの展覧会はできませんか?」が弘前れんが倉庫美術館で開催された。

社会の出来事

2022
  • 2月、ロシアがウクライナへ侵攻を開始。7月、安倍晋三元首相が奈良市で銃撃され逝去。9月、エリザベス2世が死去。10月、ChatGPTが一般公開。

2023 63-64歳

西オーストラリア州立美術館(パース)で、東日本大震災以後の奈良の立体作品を中心として個展「Reach Out to the Moon, Even If We Can't」が開催される。奈良はこれまで自身で展覧会の内容を構成してきたが、本展は学芸員の視点を大きく反映した初めての個展であった。
アルベルティーナ美術館(ウィーン)でドローイングを中心にした個展「All My Little Words」が開催される。
青森県立美術館で、2回目の個展「The Beginning Place ここから」が開催される。本展も、担当学芸員による奈良への考察が軸となった展覧会である。高校時代に奈良が創作の原体験を得たロック喫茶「33 1/3」が再現され、この展示は「手作りの精神」「小さな共同体」「立場の異なる人々との交流」といった活動の根底を成すテーマを示すものとなった。

社会の出来事

2023
  • 2月、トルコ・シリア大地震が発生。8月、福島第一原発の処理水海洋放出を開始。